仏教講演会(九十三の五)
固定せずに働きを表すことに腐心する大拙 井澤恒雄
(つづき) 固定した状態ではなく大いなるものの働きに気づかされつつ生きるということ 禅に「悟後の修行」という言葉があり悟りを開いたら終わりではなく悟りそのものを生きるということ 生きていることに喜びを見出すという「日々是好日」とか「喫茶喫飯是仏道」とかの禅の言葉は 固定したものであったならば状況が変化したら役に立たないことを示しているのである。移り行く状況の中でそれに対応しながら 明るさを戴く智慧を持つのが宗教的な信念なのである。 こういうところに大拙の禅の思想が滲み出ているのである。そこで大拙が英訳した「教」が“ the True Teaching”「行」が“the True Living”「證」が“the True Realizing”と“~ing”になっているのである。なぜ「信」がないのか?信の巻には特別の序文がついていて親鸞は特別な課題を解明する巻としたのである。 本願寺派では親鸞の他力の信心の「信」はキリスト教圏の神を信じる「信」とは違うとして 信は如来を信じるのであるが その信じる心が如来の回向による「信」であるから 被造物である人間が神を崇める信じるという意味の“faith”では誤解されるので 信心を「shinjin」と音訳して表現している。それなのに大拙は信心を“faith”と訳しているのである。 あえて通じる言葉を使いながら内容を伝えるという大拙の翻訳上の勇気である。言葉を使えば誤解を生むのは当然だが 大拙は丁寧にその内容を説いたのであった。仏教用語を中国語に翻訳するときの大問題 智慧は理性の知恵ではなく迷いがひるがえされた状態の智慧“プラジュナー”を音訳して般若と表記しているし また涅槃もそうである。 “ニルヴァーナ”を音訳して涅槃とした。涅槃では全く理解できないので寂滅とすると 死んだ後のイメージが強くなる。涅槃には涅槃経があり生きた概念であるのに。生きた寂滅とは何かとなる。相対的に動くものを止めたのが寂滅 涅槃とは本当に働くものとなって何のとらわれもない状態を云い現わす言葉のはずである。 言葉は一旦使われると言葉自身が概念化され 思いを言葉の中に内包するのでそれに囚われてそれしか考えられなくなるもの。その囚われを破っていくのが仏教である。仏者大拙は出来るだけ丁寧に生きた言葉を使いながら生きた言葉にまつわる間違いを正して伝えることに努めたのである。(つづく)
by tune1932
| 2015-08-24 19:05
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